毎日が本番

ライフログ

ダイヤモンド原石

道場の一番若い仲間が、中学に合格したと朗報が入った。

第一希望に初日で合格して気持ち晴れやかに、道場で誕生祝とともにお祝いをした。

本当に良かったと思いつつ、自分が受験したことなどを思い出した。

 

さいころ(小学生くらいだろうか)、父に「あなたはみがけば光るダイヤモンドの原石だから、勉強とかしてみがきなさい。勉強を一生懸命しても、原石が違うと、できあがりが違うから、あなたは皆と違うから」と言われて、同じ人間なのにどうしてそんな差別的なことをいうのだろう、とそのときは思った。

 

しばらくそういう差別はいけないと思っていたのだが、大学から就職するあたりで、明らかに人にはいろんなタイプがいるらしい、ということがわかってきて、さらにいろいろあって、今の日本の社会で生きていくのに生きやすいタイプと、そうでないタイプといるらしいことや、世代によってその差はあることなどがわかってきた。

そして、人間は平等でありつつも、いろいろな意味での違いがたくさんあり、広い視野をもちつつも、自分が暮らしている社会生活でのあう、あわない、などはやはりある、ということがわかってきた

そういう意味で言うと、私が生まれた世代、育った世代、社会で父が言っていたことはなるほどな、とも思える。

父が思った通りには育っていかず、医者にならなかったけれど。それでも私はいろいろな人になかよくしていただき、あるいはしたっていただき、助けていただき、ありがたく生きている。

自分が正しいと思いつつも、この正しさが通用しないこともあると思いながら。

また今日も先輩に「師匠の弟子だからという甘えがある」と言われて、気を付けなくてはね、と答えたが、それはきっと、先輩自信がそう思っていることだとあらためて思った。これを2年ほど前に強く指摘されて、そんなことはない、と反発の気持ちをもってすごくくたびれたものだったが、今はそのときよりも、気持ちがいろいろ変わって「受け入れて(心の中で)否定する」ということでやりすごすことも覚えた。

どうしてこんなことをするかというと、争ったり強く言われたりすることがストレスだからだ。人は、違うことを言われることがストレスな人もいるだろうが、私の場合は、争いの方がストレスなので、自分がどう思っていようとも、それは他人に知ってもらう必要は別になくて、ただたんたんと争いなく進めばいいのだ、と最近は思う。

 

もうひとつ父が言っていた。自己啓発セミナーに誘ったときのことだ。

父は、もう今までにいろいろ自分なりにストレス解消とかやり方は編み出したから、それでもう自分はいいんだ、といった内容のことを言っていた。それで、さらに誘うのはやめた。なんとなく、そういう意味がわかる。結局私は父にだんだん似てきているように思う。