実家の母から電話があった。
「お誕生日おめでとう。」
「ありがとう。でも、今日じゃなくて、明日だよ。」
「あら。ついにボケだかしら。あなたが産まれた日も、こういうふうに
すごおく暑くて。。。妹のYちゃんが生まれた日は大雪で、。。。
でも、まあ、今となっては、楽しい思い出だわ。あっはっは。」
産んだ親にまで誕生日を間違われるようになったか、と一瞬思ったが、
生まれてはじめて母の口から「楽しい思い出」という言葉を聞いて、
無性にほっとした。
母も、妹も、大きな恨みをかかえて生きている人のように思えた。
物心ついた時から、家の中のふたりの女性が発するものは、
言葉では説明できない「怨恨」の気配だったように思う。
それが何に対してなのか、わからないからこそなおさら、私は
その原因に自分があるのではないかという不安に、いつもおびえて
いたような気がする。
そんな母が、本当にはじめて放つ「楽しい思い出」という言葉の一角に、
私が生まれたというイベントがあるとするなら、やっとこれで
生まれてきても大丈夫だったんだ、と思うことができる。
そして何より、母が自分の人生を少しでも楽しかったと思えるようになった
ことが、私には何よりのプレゼントだった。
【編集者の最近は1行】
どんな大きな成功も満足も小さな一歩の積み重ねでしかありえない。。