毎日が本番

ライフログ

違う景色

2日間の地区講習会に参加。

段別では昇段後の段のグルーブに参加。先に合格していった知人たちや、いつも事務などを共にする方々が、おめでとうと言ってくれてはにかむ気持ちだった。入門したての頃からの他道場の先輩方もいたり、2段3段の頃に全国大会で当たった人とかもいる。当然むこうは覚えてないにしても。

そしていよいよ稽古。いきなり12本目。

審査対策であまりやってこなかった技なので、違和感を感じた。そして、知っているはずの人とあわせてみて、更に違和感が。また私の使い方がみんなと違うんだ、、と落ち込んだ、

まわりからもあれ?ほんとに受かった?というオーラを感じてしまった。

そんなタイミングで、講師の太刀で一本遣わせてもらえることになった。神木のイメージで、昨日の審査と同じ気持ちで、なんとか一本。講師はほら、大丈夫だろ、と近くに座っていた人に伝えた。その人たちは苦笑いしているように見えた。

 

私はまだまだ全然、多くの人のテンポ?にあわせられない。あの講師や、他の先生のように、あわせられるというか、あわせているとさえわからぬようになるまで稽古しなくてはと思った。

今までのいろんなことを思い出した。

自分からくりはなされちゃう人に対して批判的なことを言ったりしてきたと思う。自分たちは特別だという師匠の考えにすっかり感化されていた。私は全然特別ではないどころか、違和感のかたまりでしかなかったのだ。それを愛嬌で乗り切ってきたのだ。

そして、この日見えた景色は思っていたところとすごく違っていた。今までと違うものが見えたというか。

私は、ここではじめて師匠が言っていたことがようやくわかるような気がした。私はまだまだ違和感の塊だけれど、稽古次第でそれを解消して次のレイヤーに行けるかもと思った。そうしたら、いろいろなことがあまり気にならず、あわせ方を学ぼうと思った。もちろん、本質はわすれずに。

2日目に相手をしてもらった方は九州の方ですごくシュッとした素敵な女性だった。こんな素敵な人に違和感に思われたら悲しいと思った。萎縮多分していたが、最後に六本稽古したとき、萎縮したら失礼と思い、頑張った。あまりうまくはいかなかったけど。そして私が太刀をもって六本。すごく勢いがあって、ぶれなくて、ああ、こんなになりたいな、と思った。体当たりの上げ方とかすごくうまかった。あれ、も、一つくらいあったけれどそれを超えるすてきなものがあった。そしたら、礼をしたあと、とても楽しかった、途中まで遠慮してたけどもういいか、と思って思い切りやれてすごく楽しかったと。すごく嬉しかった。涙が出た。こっそり。今でも出る。

この人はもしかしたら他の人に違和感を持っていたで遠慮して楽しくなかったのでは?と少し思ったくらいだ。稽古は真剣勝負で魂のやり取りなのだ。

もしかするとそれができるというか感じあえる人は少ないのかも。

 

師匠が、私が2段のとき東京都大会でベスト8になったとき、お前のいいところはまだ皆に知られたくなかったと言っていたことを思い出した。その頃私は無邪気に自分にはいいところがあると思いこんでいたが、四段で落ちたときからずっと劣等感のかたまりだった。特に師匠が入院してからは、私にいいところがあると思ってくれる人はひとりもいなくて、もうほんとに下手くそだからやめようかと思っていたくらいだ。

でも、私のアイデンティティーは稽古なのだと入院のときに気づき、、、下手なのになんで、と悩み、せめて皆に求められている事務をやろうと思った感じだ。運営のために稽古してるのではないのだけど、得意なことをしないと技は下手だし、と思っていた。今でもそうは思っている。

 

この2日間で、今までのことを色々思い出し、講師が言ってくれたこと、稽古相手の方が楽しかったと言ってくれたこと、心の糧にできそうだ。

過去の写真と音楽を聞いてまた泣いた。

 

思いもよらない人からもおめでとうございますと言ってもらえた。雷打を褒めてくださった審査員の先生からよい使い方をしていたと言ってもらえた。よそのひとに、師匠以外に良いと言ってもらえたのははじめてだ。

やっとやっとスタート地点なのだ。

仕事との両立、体力など、課題だらけではあるが、なんとか1つ超えて違う景色が見えたこと、自分でよく頑張った、と言える。