5月末で大きなひとくくりを迎える。
業務はあまりにも通常運営で不思議なくらいだ。
あえて尊重したふうなことを言わなくてもいいし、あえてすごく変えなくてもいいし、ありのままというかそれこそふつうに、あたりまえにすればいいのかも、と今は思う。
思い出すのは20年くらい前のことだ。創業期?の頃のこと、原宿にいたところから千駄ヶ谷に移ってきたときのころのことだ。
私がその間すごしてきた20年、病気になったり両親が亡くなったり、師匠が亡くなったり、引っ越しをしたりいろいろあった。
ある意味いつも何も考えられないほど仕事があったのでいろいろ細かくあーだこーだ考える気力もなかったのかもしれない。
誰かがどう過ごしていたかとか、ずるいとかなんだとか、そういうのもすべてどうでもよくなってきた。最後に出てくるのは嫌味ではない感謝の意的なものだろう。(本当には感謝というよりも許せないいろいろもあるのだが、いろいろな許せないものはどうでもよくなり、感謝はまあ消えないのだな、というのがわかった)
この後私はどうしていくのか、というと、流れにまかせるが、基本は稽古を中心に体調整えていきたいなと思う。真剣勝負のやり取りよりも感覚的にすごい、というのが今のところみつからないし、突き詰めたいと思うから。
その過程で、今年になって少しずつつながってきた親戚や、旧友との親交は継続していきたいな、と思う。
今日は梅雨の手前のめずらしくすがすがしい五月の一日だ。
最近こういう日もどんどん覚えていられなくなるが、いつか何か思い出すこともあるかもしれない。ここにかいておけば。
大学の後輩が4月の末に亡くなったと連絡がきた。たしか、卒業後に病気になっていたような気がする。大学生の時に、私は彼を利用したような感じになってしまったことがあったような気がする。なぜ私はストレートに人と向き合えなかったのかなと思うが、高校生の時のことがひっかかっているからかなと思う。それは私の問題で、彼には悪いことをしたと思う、けどそういえない。今頃そらで彼はどう思っているのだろう。私のことをちょっと思い出したりすることはあるのだろうか。彼に対しても気持ちはありがとうが残るだけ、そしてごめんなさい。でもごめんといまいってももうどうしようもない。なくなってしまうとそういうこともできなくなるのだ。
やはり今までと同じように、あがいても、そうしなくても、決まっている通りにいろいろなことが起こる。少しでも楽しく笑って暮らせるようにしたい。少しでも、ちょっとしたことでも、みかえりなどまったくもとめずに、世の中の役に立つことをしたい。